■ ■ ■ TOP旅TOP 房総「鋸山」
2001.4.15 ■ ■ ■


 千葉県の南部、東京湾に面した富津市の南端に、鋸山(のこぎりやま)という山がある。「HIROHIRO」誌上へは、28号で横山ヒロ氏が報告されており、また南関東一円ではそれなりに名の知れた山であると言えよう。が、間に東京湾をはさむことから、東京都心からの交通の便は直線距離に比べて悪く、私もこれまで訪れた事は無かった。
 いつか行かねば、と思っていたところ、たまたまとある原稿を描く機会に恵まれたので、そのネタに便乗して鋸山探訪を決めた。決行は原稿の〆切も近づいた、2001年4月15日(日)である。

鋸山入口。


 鋸山の最寄り駅、JR内房線の浜金谷駅に着いたのは、朝の10時過ぎであった。鋸山までは東京都心から直線距離で約50km、成田空港や奥多摩、三浦の城ヶ島と同じ位の距離である。が、陸路では東京湾岸を迂回することになるためかなり遠い。東京駅からは快速で約2時間半の行程である。
 国道沿いのコンビニで昼食を買い、鋸山ロープウェイの乗り場まで歩く。空は快晴。行楽日和で道路もかなり混んでいる。南房総は気候も温暖、風光明媚、海も(比較的)きれいで多くのリゾート地やゴルフ場があり、特に夏場はかなり混むと言う。高速道路はまだ木更津までで、半島南端の館山までは目下整備中。
 ロープウェイは案外空いていた。山頂近くまで有料登山道路ができていて、車の客はあまり使わないせいだろう。15分間隔の運行で、各便20名くらいの乗客である。運賃は片道500円。往復割引もあるが、まあとりあえずは片道で。

 乗ってしまえば、山頂駅までの所要は4分。照葉樹の森と、採石跡の岩壁を眺めながら、案内の女性の口上を聞く。
 鋸山の名の由来は、そのまま鋸歯状の稜線の形による。山体は全山が堆積岩で、断層か何かで隆起した岩層が、周囲のみ侵食されて残った結果であろう。岩自体も比較的やわらかくて加工がしやすく、かなり以前からごく最近まで採石が行われていた。尾根はちょうど安房国と上総国の国境、現在では富津市と安房群鋸南町の境にあたり、富津市側では大規模に採石を行った結果、稜線を境に約50mほどの絶壁ができてしまっている。鋸南町側は、麓から山頂まで日本寺というお寺の境内となっていて、各所に石窟や石仏があるという。

 山頂到着。駅の屋上の展望台に登ってみる。晴れてはいるが、東京湾側はもやがかかっていてあまり遠くは見えない。横浜のランドマークタワーが薄く見えるか見えないか、という程度である。眼下には浜金谷の港と街、駅が見える。特急列車がゆっくりと駅を通過していく。

鋸山より横浜方向。


 さて、今日の課題は「原稿のペン入れ」である。画材も一式持参している。あとは落ち着いて作業が出来る場所を探すのみである。だが、予想外に人が多い。「こんなヘンな山誰が来るんだ」とか失礼な事を考えていたのだが、これだけ天気と見晴らしが良ければ賑わうのも必定。厳しい戦いになりそうである。
 とりあえず尾根伝いに移動する。ロープウェイの駅は尾根の西の端、いちばん海側にあり、尾根は海岸線とは直角に東の方へ続いている。足場は良くないが道は広く、所々に朽ちた土産物屋の痕跡が残っている。
 数分歩くと、登山道路の終点の駐車場に出た。駐車場の先には門と受付がある。この先は日本寺境内で、入るのには拝観料600円が必要らしい。一瞬悩む…が、ここまで来て引き返すのはあまりに馬鹿馬鹿しいと気付く。境内の方が落ち着ける場所もありそうだし…。とりあえず昼食を取ってからいざ参拝と参ろうぞ。

 駐車場の脇でおにぎりを食べて、拝観券を買って門をくぐる。早速もらった案内図を見てみると…「日本一の大仏さま」「東海千五百羅漢」「百尺観音」…何か結構凄いらしい。よし、まずは大仏だ。
 …と思ったが、その前に今いる西口の近くにある十州一覧台に登ってみる。由来によれば、当寺…乾坤山日本寺の開山は神亀二年(725年)、かの行基菩薩によるという。宗派は時代と共に変わって現在は曹洞禅宗。そして、それとはあまり関係なく、この展望台には世界救世教の記念碑が立っている。開祖が悟りを開いたのがここであった様だ。神仏混交の名残か浅間神社のお社もある。
 1783年建立の大仏様や、同じ時期に関東300万人講の名をして彫られた1553体の羅漢像など、明治の廃仏毀釈までは相当栄えたらしいが、その後荒廃し、1939(昭和14)年、火災で堂宇仏像を全て焼失。復興は1960年代に入ってからやっと始まり、大仏の修繕などを経て、現在ようやく本堂の再建を開始したところであるらしい。

 石段を延々下って大仏の前に出た。確かに大きい。鎌倉などでは「大仏ってもっと大きいと思ってたけど…」という話を良く聞くが、ここの大仏様は、「想像していたとおりの大きさ」という印象である。ただ、元々がもろい堆積岩を彫って作られたものであるため、修復されているとは言え、鋳造で作られた奈良や鎌倉のそれに比べ、痛みがはるかに激しいのは仕方ない。

「大きさ」だけが命綱の身長30メートルの大仏(違)。


 大仏様の前は広場になっており、描き物にはちょうど良さそうな机のある東屋などもある。しかしやはり人が多い。こういうものはやはりなるべく人目につかないところで描きたいよな〜…。

 先を急ぐ事にする。大仏前から今度は石段を延々と登る。高低差は200mほどもあろうか。千五百羅漢を経て、山頂へ。林の中の道を登りつめ、木が無くなったところが山頂だった。
 山頂のある尾根の南側…今登ってきた、日本寺の境内の側もかなりの急な斜面だったが、登りきると現れる尾根の北側は、斜面などという生易しいものではない。文字通り垂直に切り立った絶壁である。覗き込んで思わず息を呑んだ。岩壁の上は平らになっていて、際のぎりぎりのところまで歩いていける。柵は一応あるが見るからに頼りない、低いもので、しかも今日はかなり強い南風が吹いている。

本物の絶壁。


 普通なら凄く怖いだろうが、その垂直な具合といい、木の生え方といい、人工物がほとんど見えない背景といい、妙に現実味が無くてあまり恐ろしさが湧かない。何だか冗談のような、狐にでも…いや土地柄でいうと狸か、ともかく化かされているような気分である。山頂の少し西にある、崖からせり出した突端の部分などは、もう見ていて笑ってしまう。笑うしかない。
 もちろんこの絶景は、自然のものではなく人の手によるものである。とは言え、崖下の落書きによれば、この景色は生まれて既に50年以上。それなりの風格も得て、なんとなくファンタジーっぽい気配も漂うのであった。

 風はあいかわらず南側から強く吹き上げてくる。周囲よりさらに一段高くなった山頂に立って、風に向かって立っていると、はるか下のほうからとんびが風に乗って登ってきて、頭をかすめてくるっと回り、ちょっと止まってからまた降りていった。

 山頂近くの尾根沿いにもいくつか東屋などがあるが、やはり人が多い。ボーイスカウトの団体が来ているようである。そこで、より人が少なそうな、山の北側の登山道に入ってみる事にした。まずは山頂からまた少し下り、百尺観音の前に出る。ちょうど山頂付近の崖の真下にあたる場所の崖に、巨大な観音像が彫られている。この像は1966(昭和41)年の完成とのこと。掘り込みが浅くて扁平な感じはするが、大きさはかなりのものである。
 向かい側の岩壁にはなにやら岩を彫った落書き。「東工大 昭和12年」…。一面にいろんな学校や団体の足跡が彫られている。当時は日中開戦を背景にした健康ブームで郊外への行楽がはやっていた時代、結構多くの人が訪れたのであろう。

 見上げると、さっき歩いた断崖の上の道の柵が見える。やはり冗談のような景色である。

その名は「地獄のぞき」。


 観音像の前を過ぎ、北口から一旦境内の外に出て登山道を少し下る。悪路だが、登ってくる人も結構いる。描き仕事が出来る場所を探しながら歩いていくと、分かれ道に出た。今歩いているのは浜金谷駅からの登山道だが、ここで分岐して鋸山の中腹を回る道があるらしい。新鋸山遊歩道、現在整備中につき事故等あっても責任は負わない旨の立て札が出ている。採石場の跡に出られる様なので、ちょっと入ってみた。
 登り下りを繰り返しつつ少し進むとまた分かれ道である。右は採石場跡、左は洞窟方面。まずは右へ行く。ちょっと登ると事務所跡とおぼしき廃屋があり、その先はまさに採石場跡の、崖下の空き地に出た。
 空き地の広さは50m四方くらい。北側以外の三方向は50m近い高さの切り立った岩壁で囲まれていて、中腹あたりに「安全第一」と彫ってある。北側は開けていて、石材を降ろすのに使ったと思われる索道の痕跡が残っていた。足元の森の先には浜金谷の街と東京湾が見える。空き地の中にはなにやら機械の残骸や、石材の端材がそこここに転がっている。放置されて20年位は経っているが、まだ時々掃除をしている…といった様子である。人気はほとんど無く、時々山頂の方から風に乗って歓声が聞こえてくるだけである。

 ここならばまず人は来ないだろう…という事で、石材を机と椅子の代わりにして原稿のペン入れをする。下書きは一応自宅で済ませてきたが、現場のネタに合わせてちょいと手直し。

こんなところ。


 聞こえてくるのは、風に揺られる木の葉の音、鳥の声(聞き分けられるのは下手な鶯の声だけであった)、ペンの音、日向ぼっこしているトカゲが時々立てる足音。うっかりすると気持ちが場の雰囲気に飲み込まれて恐ろしさが湧いてきそうになるので、原稿に集中する。  しかし私はこんなところで一体何をやってるんだろう…。

 二時間ほど描いたところで気が滅入り、腰も疲れてきたので一休み。一旦片付けて、さっき立て札で見た洞窟の方へ行ってみる事にする。分かれ道まで戻って先へ進む。
 その道は恐ろしく妙な道であった。山中には、江戸時代から続く採石の痕跡たる、岩を切り出して作られた古い通路や、掘った跡に水が溜まった怪しげな池、放置された岩塊、岩壁などが木に埋もれて散在しており、登山道はそれらを結んで続いている。写真を撮りたい…が、つくづく替えのフィルムを持って来なかったのが悔やまれる。こんな変なもの、滅多に見られるものではない。
 10分程歩くと「洞窟」に着く。崩壊の危険があるようで、ロープが張られて入れないようになっていた。奥は暗くてよく見えない。天然のものなのか人工のものなのかは良く解からないが、堆積岩が地下水に浸食されるということは無さそうなので、例えば宇都宮の大谷石採石跡のような人工の地下道なのではなかろうか。まあダンジョンであるな。

 戻ってふたたび原稿描き。ペン入れをして、ベタを塗って、網掛けをして…。カッターを使うのが大変なのでトーンは使わず、全て手描きで済ませる。ホワイトで修正を入れて絵は完成。

 日がだいぶ陰ってきた。時刻は夕方の4時。暗くなると山道がきついので、残る文字の清書は下界で行う事にして荷物をまとめる。浜金谷の駅までは、1時間はかからない筈である。
 夕暮れの尾根道を下る。所々に組まれた古い石畳や石段は、長年石材輸送などに使われていた名残であろうか。表面はかなり磨り減っていて歩きにくい。多少早足で尾根をたどり、最後に長い階段を下るとようやく舗装した道に出た。駅まではすぐである。

 駅前のすみっこで原稿を仕上げ、念のためにコンビニでコピーを取ってから封筒に入れて投函。明日の午前の便で回収されて、届くのは3日後くらいであろうか。

海からノコギリ山


 帰りは浜金谷港から久里浜へのフェリーに乗った。出港は18時10分、ちょうど日が沈むところであった。残照の鋸山が次第に小さくなっていく。…が、折からの強風を横から受けたフェリーはこれでもかと揺れ、デッキの柵にしがみつくのに必死な私。
 横須賀の火力発電所の煙突が大きく見えてくれば、もうじき入港である。
 
多謝◇旅ネタ提供:横山ヒロ様。

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